一日一歩画像掲示板
各地で活躍されている方々を紹介していきます。
名前
メール
HP
題名

内容
画像
修正キー (英数8文字以内)
 None Giorgos  2008年7月5日(土) 16:05  HP Mail
[修正]
The siteミイミや┐s very professional
<a href=http://yvonnejones.678host.com/nursing653.html > nursing </a> <a href=http://michaellay.247ihost.com/nursing5990.html > nursing </a> <a href=http://barbarakelly.2222mb.com/nursing4226.html > nursing </a> <a href=http://billydickerson.freewebhosting360.com/nursing5128.html > nursing </a> <a href=http://williamcunningham.hothostcity.com/nursing4580.html > nursing </a>
[url=http://michaellay.247ihost.com/nursing4561.html] nursing [/url] [url=http://bernardsmith.freewebhosting360.com/nursing679.html] nursing [/url] [url=http://yvonnejones.678host.com/nursing653.html] nursing [/url] [url=http://aprilwhite.yoyohost.com/nursing2389.html] nursing [/url]

 IT関連会社代表役員 植木 政勝  2008年1月10日(木) 14:58
[修正]
(昭和38年生)
  福岡県  筑豊・稲築にて出生 
  職業   IT関連会社代表役員

人間 生まれた瞬間(とき)から、人に世話に成っている。
乳幼児期に世話する人の人間性で、後の生き様が決まる。
地位や名誉がつくと、それを忘れてしまう。
俺が俺がと自分を見失い、有頂天になる。
有頂天になる人間の心には、寂しさや怖さ、一人ぼっちになる恐怖心が宿っている。
国が打ち出した。
国民全体の10%は、何らかの心の問題を抱えている。
今の社会情勢では、それ以上の人間が弱く成っている。
人間の心の弱さは、様々な人間関係の「ひずみ」を出す。
反社会的な人や人間関係に害を及ぼす人を、人格障害者とも言う。

有頂天に成った人は、己の心に存在する「ひずみ」に気がつかない。
反対に心の「ひずみ」を、気にし過ぎる方もいる。
どちらも行き過ぎると、病的に成る。
何れにしても。
生を受けてから生きている間は、周りからの支えで生きている。

一歩家を出ると、考えもつかない、意地悪な人間に出会う。
利己的な人格障害者である。
1,精神病 ・・・・・・・・・分裂病、躁うつ病
2,気質性の精神病・・・・・・薬物依存、中毒
3,神経症・・・・・・・・・・うつ病等
4,人格障害・・・・・・・・・人格の片寄り
今では分裂病とは言わず、統合失調症と言われている。
神経症とも聞かれなく成ってきた。
境界例とか境界性人格障害と言う、心の問題がある。
これは精神病と人格障害の間(境界)にある、心の障害である。

境界例は、乳幼児期の育ち方に関係する。
乳児は母親の顔を見て育つ。
先ず最初に母親の目を確認し、感情が育ってくる。
母親の人格に問題があると、子供に伝承される。
他人から見て立派な母親であっても、孤独で、我がままな母親がいる。
母親は、一生懸命に子供を育てる。
子供は少しづつ親離れをしていく。
人格的に問題がある母親がいる。
子供の親離れが、寂しくて我慢出来ない。
何かと理由を付けて、子供の親離れを防いでいる。
子供はそんな母親に対し、依存している「ふり」をする。
子供は何時のまにか、母親と同じく、周りから見放されるのを恐がる。
成長した子供は、孤立を防ぐための「策略」を始める。
良い人間の仮面をつけて、仲間を集める。
弱い立場の人間に近寄り、協力する。
相手が立ち直りを見せると、見捨てられるとの思いで取りついていく。
仲間に成らない人間は、徹底的に攻撃し意地悪をする。
慣れた精神科の医者でも、見抜くことが困難な、心の障害である。
これに近い心を持った日本人が多くなった。
人間関係に「見返り」を求めすぎて、弱くなっている。

人生が一息ついた時に、社会奉仕を始める人がいる。
  老人ホームに慰問に行ってやった。
  唄ってやった、踊ってやった。
皆んなが 喜んで楽しかった。
人間生まれた瞬間から、人に迷惑をかけて生きている。
それを「ありがたく」感じる人間がいる。
その人たちは。
老人ホームに行かせてもらった・
唄わせてもらった。踊らせてもらった。
皆さんと共に喜び、楽しませていただいた。
    感謝、感謝の心が充満している。

話しは変わるが、大分県に杵築という場所がある。
宇佐神宮にほど近く、農業で生計を立てている地方だ。
そこで、現在80になる小夜子が生まれた。
小夜子が幼い時期に、両親が相次いで亡くなった。
終戦前後の事である。
親類縁者が集まり、幼い小夜子の行き先を探した。
筑豊地方に稲築という町(現、嘉麻市)がある。
全国から人が集まり、炭坑で栄えた町だ。
その稲築に小夜子の縁者がいて、引き取られて行った。
相手も貧しく、肩身の狭い思いであったが、小夜子は頑張った。
引き取ってくれた方が良かった。
幼いながらも働き、少ない時間に学んだ。

小夜子は成長した。
同じような境遇、5才上の孝義と知り合い所帯を持った。
隣の穂波町に行き、二人で働いた。
次々に炭坑が閉山していった。
仲間は、長崎・北海道の炭坑に行った。
小夜子は夫婦で、鞍手郡の宮田町に移った。
炭住と言う、長屋で生活を始めた。
貧しかった。
とにかく二人で精一杯働くしか、方法がなかった。
そこの炭坑も閉山に追い込まれ、仲間が少なくなった。
貧しく・苦しく・きつかったが、小夜子は頑張り抜いた。
小夜子を支えたのは、小夜子の心にあった「感謝の心」だ。

前置きが長くなった。
そんな小夜子と孝義の長男が、植木政勝である。
植木は稲築で生まれ、宮田町で少年期を過ごす。
大之浦小・中学校に通う。
近くの学校は炭坑閉山と共に、閉校や合併を繰り返していく。
植木が通った中学校は閉校になり、最後の卒業生になった。
最後の卒業生の総代となり、挨拶をした。
環境的に恵まれていなかったが、教師を目指した。
小学生から始めた野球は、中学でも続けた。
  家に余分なお金はなかった。
迷うにも迷いようがなく、公立高校の受験しか選択できなかった。
当時野球が強かった、県立の進学校である鞍手高校を受験した。
受験に失敗すれば、定時制高校に行こうと考えていた。

高校では井の中の蛙で、授業に着いていくのがやっとだった。
野球に打ち込んだ。
試合中にボールが、顔に当たった。
教師(監督)に言うが認められず、試合参加を続行した。
試合後ようやく病院に行った。
学校側が慌てたが、診断は「顔面骨折」で2週間の入院。
教師に不信感を抱いた時期もあったが、どうにか卒業。

周りの高校生は、大学進学者が多かった。
進学したかったが、家にはお金がなかった。
大学をあきらめ、情報処理の専門学校を選んだ。
大学に行けなければ、職人的な職を身につけたかった。
高校の教師からは、そんな女がする仕事は止めろと言われた。
それでも植木は、進むのこの道と決めた。
問題があった。
学費が高く、親では負担できなかった。
  一年目が入学金と合わせ、80万円
二年目が、60万円
それに食費やアパート代、その他の経費がかかり迷い抜いた。
目にしたのが新聞奨学生制度であった。
全国紙ではなく、西日本新聞社の制度が一番親切であった。
制度を利用し、専門学校に通った。

自転車から始まった新聞配達は、バイクになっていった。
その内朝刊360部・夕刊320部の配達をこなした。
年末になるとチラシが多くなり、寝る間がないときもあった。
2年間の食事付きの住み込みで、学費援助80万円も返済不要であった。
植木は助かり、己自身で3つの条件を考え、守り抜いた。
・6時までに配達完了
・配達ミスをしない
・雨降りでも極力新聞を濡らさない
そんな決心で励んでいた、冬の寒い朝であった。
朝刊を配っていると、配達先におばあちゃんが立っていた。
植木を見つけ、近寄ってきた。
そっと 毛糸で編んだ、長めの帽子をくれた。
ちらつく小雪が目に入った。
老婆の優しが、心に染みこみこんだ。
目が潤んで「ありがとう」と代弁した。。
手が震え、手にするハンドルも喜び、バイクが踊った。
植木を育てた母親と同じく、そこには「見返りを求めない」老婆の心があった。
老婆が与えた心を、素直に受け入れる心は、母親がくれていた。
  その時 植木は社会の平和が、何であるを知った。
  母親を理解し、大人になった。

その後、専門学校を卒業し東京に行った。
大分では、IT関連の専門学校で教えた。
植木には職人に成ると言う目標があり、IT関連の技術者に戻った。

現在の植木には、野球選手に成る夢や教師に成る夢は、遠ざかってしまった。
福岡市内に、IT関連の「プロップ」と言う会社を作った。
プロップとは、「支柱」と言う意味がある。
自ら起こした事業では逃げない。
IT技術の要(かなめ)と成る事を誓っている。

植木 政勝 44才

 筑豊の影武者が動く 上野 正筆  2008年1月10日(木) 14:56
[修正]
(昭和24生)
福岡県 筑豊・直方にて出生
職業 (有)エム・アンド・エム代表
    プログラマー、理容師

人間 何が悩みか、他人には分からない。
実の親でも子の悩みに気づかず、理解出来ない時がある。
ある所に、社会的に認められた夫婦がいた。
二人で頑張り家を建てた。
二人の仕事には、世間体があった。(あると思っていた)
身の保身の為だとは気づかず、社会の為だと働いた。
己が頑張っていられるのが、周りの支えだとは、気づくのが遅すぎた。

その夫婦の子は悩んでいた。
端から見ると、今で言うイケメンの顔立ちであった。
それでもその子は、顔に執着し悩んでいた。
学校では素直な生徒で通した。

筆者の元に、親から一本の電話がかかった。
息子が暴れている、来てくれないか。
家庭訪問をすると、和風の立派な家であった。
玄関を入ると ウッ・・・と息が詰まった。
目に入る全ての柱が切られ、床柱まで切られていた。
家の中の家具は全て倒され、衣類や食料が散乱していた。
どんな生活をしているのか不思議であった。

ある理容師に相談した。
暴れる子の、理容師に関する相談であった。
理容師は黙って聞いた。
理容師は頷いた(うなずいた)。
 連れてきて。
理容師はその子と話し、何一つ無駄な言葉はかけなかった。
その子の顔がどの様に変化したかは、見ても分からなかった。
その子は立ち直り、社会の中で、何事もなかったかの様に働いている。

筑豊の鞍手郡に囲まれた所に、直方市がある。
直方市は炭坑が盛んな時から、金属加工の技術力が高い。
一匹オオカミ的な親方の元で、技術者が育っている。
彼らは各自で専門書を読み・学び、独自の技術力を身に付けている。
石炭産業に支えられ、旧八幡製鉄所に支えられた技術者が集まる地方都市で
ある。
市内には遠賀川が流れ、周りには広々とした田園風景が広がる。
旧国鉄時代の蒸気機関車は、直方駅で方向変換していた。
駅の近くには多賀神社があり、桜の花が美しい。
その直方駅の近くに、上野理容院があった。
上野正人と言う、昔気質(かたぎ)の理容職人が開いた店である。
下手な冗談を言わず、他人に媚びず、訪れる客の相談は親身に聞いた。
人望の厚い人間であった。
ある時、正人が言った。
お前、理容師になれ。
言われたのは正人の長男、上野正筆である。
聞いた上野正筆は、ガックリきた。
上野には夢があり、親に隠れて勉強に励んでいた。
 その言葉で決めた。もう勉強はしない。

正筆が二十歳に成ったとき、楽しい事が起きた。
それは大声を出して軍歌を歌い、己の気持ちを表現できる時間が持てた。
可愛がられた、面白かった、楽しかったが悪いことは何もしなかった。
いつの間にか、あれだけ頑張った親父が小さく見えた。
家業の理容院にいる時間が増えた。

正筆31才、仲間が10人集まりパソコン倶楽部を立ち上げた。
今から27年前の事である。
CGI・スキル、ワード・エクセルは元より、パソコンの基礎から学んだ。
理容と勉強の合間をぬっては、トライアルバイクを楽しんだ。
いろんな仲間が沢山集まった。
知り合いの事業主から請われるまま ホームページを作った。
理容院を訪れる事業主は、筑豊の景気衰退と共に元気がなくなっていった。
オイ 元気を出せ。 上野は心で叫んだ。
全て無料奉仕であるが、相手は喜んだ、元気を取り戻してきた。

上野45才、北九州・直方・飯塚に理・美容の店を開いた。
飯塚店の近くに、国立の九州工業大学が出来た。
学部は情報工学である。
若い仲間が集まる、正筆は大きな期待に胸を膨らませた。
一人二人と学生が散髪に来た。
時を同じくして、店をひとつにした。
客である学生にパソコンを教えた。
学生の中には、生活を切りつめて学んでいる者もいた。
大学院生を中心に、パソコン教室を始めた。
それも若手に後を譲り、今では筑豊の事務所に、IT関連の支援をしている。
パソコン指導の影武者として、分け隔てなく、笑顔を振りまいている。

理・美容でも、職人が少なくなった、と上野は言う。
もう、ハサミを研磨できる者が少ない。
美容院・トリマーはともかく、理容院でも同じ状況が進んでいる。
理容でも美容でも、本来の仕事に夢中になり、ハサミ研磨に精を出す者はいな
い。
職業の分業化がここまで来ていた。
得意のパソコン技術を駆使し、自分のホームページを開いた。
ハサミ研磨の呼びかけをした。

上野には、しっかりした奥さんがいる。
同居している上野の両親を支え、理容院を守っている。
その支えを基本に、筑豊で活動する影武者。
上野 正筆 58才。これも筑豊の顔である。

 筑豊に生きる経営コンサルタント 笹栗 守  2008年1月10日(木) 14:55
[修正]
(昭和 26年生)
  福岡県 筑豊にて出生
職業  経営コンサルタント・人材派遣

(画像を左クリックすると、人物画像が大きく出ます)

筑豊という地域があり、その地は、嘉穂郡・田川郡・鞍手郡に分かれる。
ここには飯塚市、直方市、田川市がある。
以前の山田市が嘉麻市となり加わった。
太古の昔 筑豊では焼き物が盛んに行われていた。
食器類だけでなく 大きなカマが焼かれていた。
そのカマは、葬儀用の棺桶として利用されていた。
四方を山に囲まれて、飯塚市付近は盆地である。
カマが必要であれば必ず山越えをして、峠を越えねば成らなかった。
その峠をカマ峠・・・嘉麻峠と言って今に引き継がれている。

佐賀県の旧脊振村(現、)の下石動には、古い下石動神社がある。
福岡地区から佐賀や久留米・筑後地区に行くには、三瀬峠か坂本峠を通る。
その峠を下りた所に神社があるが、その近くが、日本のお茶の発祥地である。
同じく筑豊の旧筑穂町(現 飯塚市)に大分八幡宮がある。
情報の一部は、九州全体や本州に入っている。

筑豊は日本経済のエネルギーを背負っていた為、石炭を運ぶための鉄道が早
くから完備している。
全国から技術者や労働者が集まった。
料理人も沢山集まり、味覚にうるさい土地でもある。
千鳥饅頭、ひよこ饅頭、さかえ屋、栗饅頭、アラレのもち吉、各種食品に使用す
るスープの一番食品、その他全国に知られた食品が数多くある。
今でこそ幼児教育が大切と言われているが、幼稚園なども発祥の地である。
博多に負けず、すこぶる美人が多い地域でもある。

少し長くなったが筑豊は、炭坑や石炭・荒くれ人間のイメージが強すぎる。
だんだん少なく成ってきたが、筑豊気質という言葉がある。

筑豊気質とは筑豊の人間でも「気っぷ」の良さ等と勘違いするが、それだけでは
ない。
助け合いの精神・認め合いの心・優しさ、などを指しているが、この精神の中に
は「見返りを求めない言動」がある。
見返りを求めない心とは、仏教で言う慈悲の心である。
それらの心が筑豊気質として残っている。

嘉穂郡の石炭需要が華々しい時、製材所を営み材木問屋の豪商に笹栗倉雄
がいた。
戦後の活気がある中に、貧しさも同居している時代・地域であった。
豪商笹栗は、青春の門という映画に出てくる様な時代背景の中で、前述の筑豊
気質を持ったまれに見る男だった。
石炭需要の景気後退と共に、筑豊の好景気は終わった。
人間 笹栗倉雄は悪行が出来ず、筑豊の石炭景気に運命を委ねた。
その笹栗倉雄の孫が、笹栗守である。

笹栗守の幼少時期は、羨ましい生活であった。
筑豊の景気後退と共に少年笹栗守は、田川郡に生活拠点を移した。
 笹栗は、頑張り抜いた。
地元の高校を卒業し、九州大学の工学部・電気工学科へ進んだ。
若気の至りか正義感か、心が荒れた時もあった。
それでも無事に卒業し、電気工事関係では、プラント作りに笹栗ありと言わしめ
た。
行き着く所までは行き着いたが、心に穴が空いていた。
日本の工業技術は、発展の一途を歩んでいた。
その時気づいた。
コンピューターのシステム管理・開発が必要だ。
転職し、学生に戻ったつもりで学び直した。
その後、顧客のコンピューター管理サービスにも励んだ。

各種の顧客を相手にする内、事業主の経営眼を見た。
心の求めるまま次の職場、公認会計士事務所へと移った。
会計処理の専門家へと進んだ。
各種企業の中身を点検・指導する立場で、会計処理を学んだ。
約10年、日本経済を支える企業と接して、日本を見た。

真夏の炎天下の中を笹栗は歩いていた。
道行く人はうだるような暑さの中、何が目的か、急いでいるかに見えた。
笹栗は立ち止まり、一本の百日紅の木に目をやった。
これでもか これでもかと容赦なく照りつける日差しの中で、ピンク色の花が美
しかった。考えると物心ついて50年、休む暇なく動いてきた。
額に背中に流れ落ちる汗は、百日紅の可憐で逞しいピンク色の花が、冷やして
くれた。
お金や贅沢に執着しない笹栗の心が、暖かく成った。
 決めた。 筑豊に帰る。
バブルショックから立ち直り始めた、日本社会ではあった。
それでも筑豊には今の立場を捨ててまで、笹栗を迎える安定した仕事はない。
 決めた。 俺が会社を作る。

飯塚に人材派遣会社を作った。
今まで笹栗を支えてきた妻は、笹栗の前を歩いて行くのを好まない。
日本的な奥ゆかしさを持った美形の妻だ。
その妻も立ち上がり、会社の事務所で笹栗を支える。
生産現場を知り尽くし、会計を知り尽くした笹栗の心は弾んだ。
人材派遣会社はある意味、労働者給与のピンハネとも成りかねない。
 笹栗は考えた。
人材派遣と共に、各事業所の地力を高めて行く必要がある。
焦点が定まった。
仲間と共に、地場産業が発展すべくNPO法人を作った。

若い頃に無理をしてきた笹栗は、人並みに生活習慣病を持った。
主治医の弟が言った。
 歩け。
時間を見つけては、散歩をするようになった。
歴史のある郷土を盛り上げる。
笹栗の心は、地場産業の発展を目指している。
陰で支えてきた妻に、感謝の念が高まった。
その妻が後押しをして、笹栗は筑豊の将来を見ている。

「共生」の言葉を持って、笹栗守は、もう立ち止まらない。

  平島 善治  2008年1月10日(木) 14:54
[修正]
昭和25年生 56才)
 福岡県筑豊にて出生
 職業 理容師

戦後日本が大きく動いた。その中で、筑豊は石炭に振り回された。
馬車がまだノンビリと荷を運んでいる時、戦後復員してきた「隆治」という若者が
車に目を付けた。
がむしゃらに車の構造を研究した。
その後 実力を付け車の整備士に成った。
トヨタが整備士のコンクールを開いた。戦い抜いて全国優勝した。
二度の全国優勝で、筑豊は石炭だけではない事を世に知らしめた。
隆治には三人の子がいて、長男が善治である。

善治は父に似て手先が器用。理容師に成り二年間奉公した。
ハサミとカミソリの使い手として、技術を磨き自信が出てきた。
男のカットは、スポーツ刈りが長髪の流行と共にすたれていった。
短髪から長髪に伸びる課程の髪の毛は、まとまりが悪かった。
世の中では清水健太郎が、特殊な短髪で売り出していた。
ハサミの使い手として技術を磨いていたが、世の中の流れが変わり、平島は悩
んでいた。
短髪の処理をパーマではなくカールする店があると、沖縄から情報が入った。
平島は沖縄に飛んだ。焼きコテで毛先を曲げていた。
これではお客からお金が取れないと、父隆治と同じく研究を重ねた。
理容の道具屋に相談し、道具を揃えた。
丸いコテを利用した短髪用のパーマが完成した。
各地から職人が見に来て広がっていった。
平島はエンペラーと名付けた。

4年後、大阪からパンチパーマとして、名前が全国に広がった。
独立して店を出し、結婚して家を建てた。
時間を見つけては、障害者の施設へカット奉仕を重ねた。
言語障害者を弟子に取り、職人に仕上げた。順風満帆に見えた。
忙しく働いている時、一本の電話が鳴った。
 「家が燃えている 早く帰れ。」全身の力が抜けた。
気を取り直し、借金して家を建て直した。
数年経ったある時、電話が鳴った。
 「家が燃えている 早く帰れ。」
二度のショックで、気持ちが萎(な)えた。
その後、理容ではない違う方向に目が走った。
一攫千金を狙った仕事に動いた。

本職ではない仕事には無理があった。数年経った。
背中が痛くて仕事に身が入らず、家に帰っても寝れられない日が続いた。
 病院に行くと肺ガンであった。
左の肺を取ったが、暫くして再発した。
脾臓に転移していたので取った。
世の中の「不平等が平等」、社会の仕組み、自然の流れを知った。
病状は安定した。
今は、抗ガン剤を飲みながら理容に励んでいる。
今までの生活を振り返った。
無理のない範囲で「いじめられる子」の救済や、悩み相談を受け付けてい
る。薄毛やハゲを対象にした、理容の研究にも取り組んでいる。
相談を持ちかける客が増えた。

 今度は平島の心が、社会の為に燃えている。

全 5件 [管理]
CGI-design